西川隆光です。

 

前回お話した

上求菩提下化衆生

(じょうくぼだい・げげしゅじょう)

について、

もう少し掘り下げていきましょう。

 

上に向かっては

限りなく菩提心(向上心)を持ち、

下に向かっては

限りなく衆生(他人)を救っていこう

という意味合いで、

これを同時にしていくというのが

修行だとするものです。

 

これは、

悟りを求めるという「自利」と

衆生を教化するという「利他」、

つまり

自利利他の菩提行を

さした言葉とも言われます

 

自分を磨いていくことは

大事だけれども、

同時に共生の精神も

磨いていかなくてはいけないという

この世での魂修行における

課題です。

 

文字通り上と下という

相反するベクトルではありますが、

実践していくうちに

実は、下化衆生というのは

自分を高めていかないと

できないということに

気づいていきます。

 

多くの人や、多くの人の幸せに

関わっていこうとした場合、

自分のモチベーションも含めて、

自分の能力を高めていかないと

底辺に広く何かを届けるというのは

難しいことになってきます。

 

逆に言えば、

自分が高みをつくっていくことによって

それだけ底辺の多くの人への

感化力というのが

高まっていくはずなんです。

 

しかし、得てして

人は向上していくと

他人に厳しくなったり、

できない人に

裁きの態度をとったり

してしまいがちです。

 

これは、

自己処罰的発想を持った魂の人に

よくみられる傾向性です。

自分にも厳しい人で、

心がどうしても両極端に

なっていってしまいます。

 

すべてを円満にとか、

すべてを自分が納得できるようにする

といったことは

所詮無理な発想です。

 

大事なことは

時間を止めて考えないこと。

相手にこうあってほしいとか、

会社に不満を言うとか、

自分ではどうにもならないことに

注意を払うことを止め、

流れて行く時間の中で、

いつかはこうなっていけばいい、

きっといつかはこうなっていく

と考えてみることです。

 

諸行は無常です。

万物は常に変化しています。 

ですから短時間では成らないことも

過ぎ行く時間の中では

成っていくこともありますし、

逆にどんなに盤石に思えるものでも

いつかは消え行くのです。

 

スピリチュアルな発想の中では

「執着を捨てる」べきだと言われます。

その究極においては

思いを一点に滞らせないことです。

それが執着になるのです。 

「いつかは…」と信じる心、

暖かく豊かな心を

持ち続けましょう。

 

そのような心を持って

上求菩提とともに

下化衆生を同時に考え、

実践していくべきなのです。

 

広く底辺にまで

愛を広げていこうと思うと

そこに智慧が必要となり、

その智慧がまた愛を広げる

原動力となっていきます

 

では、また。