この数日の間で

人生は突然終わることもある

と、改めて感じた方も

多いのではないでしょうか。

 

事故や震災、戦争などもそうですが、

世の中には突然、

それも理不尽に

死んでいく方もいます。

 

このメルマガでも、

つい先日、

理不尽な死によって

ある種の恨みを抱えて

亡くなった方は

成仏できないことが多い、

というような話を

したと思います。

 

実は、大抵の人は、

自分が死んだことに

気がつかないのです。

 

ただそれでも、

やがてある時、

気づくんですね。

「あ、自分は死んでいたんだ」と。

 

そして、死んだときの

この世に対する執着が、

あの世への旅立ちを妨げます。

 

日本人が死んだとき、

やはり皆

三途の川を渡るようです。

 

そのとき、

心の中の執着が

川の底に出てきて

なかなか川を渡れない人がいます。

 

しかし一方で、

まったく躊躇することなく

すいすいと川を渡る人など

さまざまいるようです。

 

その違いというのは、

心の中にこの世に対する

執着があるかないかです。

 

この世的なことや肉体的なこと、

他人や環境のせいにすること、

自己否定、過去への囚われといった

執着です。

 

ですから

善人の還る世界に行くためには、

いつ死んでも悔いのないよう

心の中の執着を

とり除いておくことです。

 

少し心が重いなと感じたら、

その原因を点検、反省して、

囚われのない、さわやかな心に

戻しておくことが大切です。

 

やはり、この世に生まれた以上

どうしても

寿命というのはあります。

 

それがなぜあるかといえば、

今回の人生にとって、

魂が学ぶにふさわしい年数を

ある程度決めてくるからです。

その寿命を生き切ることが

人生の課題になっている魂もいます。

 

この世での時間が

有限であることが

重要なのです。

 

もし

いつまでも生きられたら、

おそらくある時点からは

堕落していくことでしょう。

その逆に

死にたくなったときに

いつでも簡単に帰天できたとしたら

今回はもうリセットしようといって、

勝手気ままな人生に

なっていくことでしょう。

 

結局、寿命も中道なのです。

ほどほどの時間の中で

最大の収穫ができる線を

決めてきているわけです。

 

しかし、震災や戦争などは、

予定されていた寿命ではなく、

仏教では共業(くうごう)といって、

この世での行き過ぎた部分での

犠牲者です。

 

そうした尊い犠牲は

人々に反省を求めます。

そういう面で、

尊い貢献をされているのです。

 

いま生きている我々は

日々、反省と感謝をして、

より良い未来をつくっていく

義務があります。

 

その未来の延長線上に、

事故や戦争、震災などで

不慮の死を遂げた方々も

生まれ変わってくるのです。

 

一人ひとりがしっかりとした

未来のビジョンをもち、

社会に貢献するべく、

一日、一日を

大切に生きていきましょう。

 

では、またメールします。